大阪(なんば)球場の 変貌
ご存知ミナミの「なんば」にあった球場 |
「なんばPARKS」に生まれ変わりました |
モニュメントが広場にあります |
ピッチャープレートがあった場所と |
ホームベースがあった場所に |
南海ホークスの証が、永久に残されます |
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世間では「大阪球場」でしたが、地元では通称「なんば球場」。この街は通常「ミナミ」と言われますが、当時家が近くだった私は「なんば」と言っていました。上町からは、自転車でなんばに行けましたし、今みたいに華やかな街でもなく、どこか場末の雰囲気さえあったのですが、南海ホークスがなくなってからは、なんばも再開発され、現在のように多機能型で、オフィスも多くなりました。 なんば球場は、間違いなく西宮球場やGS神戸より多く行きましたので、ビジターで最も多く通った球場です。私自身が野球を見始めた前年に、南海はリーグ優勝したのですが、これが最後の優勝。したがって、南海ホークスの優勝を見た経験はないのですが、最後まで、根強いファンがいたのも南海ホークスでした。 昭和54年、近鉄初優勝のときは、このなんば球場がプレイオフ・日本シリーズの場所となり、大変な記憶を残すことになりましたが、ミナミという場所柄、会社帰りのサラリーマンや、そのまま飲みに行きそうな方々が多く、やはり藤井寺とは違った「都会」の雰囲気もありました。また、都会であるゆえ、街が犇めき合っていますので、球場自体は場所が大きく取れず、よってあの有名なすり鉢状の急勾配のスタンドが出来上がったそうです。 昭和63年に、ホークスが福岡に移転後、壊す壊すと言われながらも、暫くは住宅展示場やアマチュア野球などに使われていました。平成2年、夏の高校野球決勝である「上宮−渋谷」を私も観に行きましたが、中村紀洋が2本のホームランを打って、甲子園出場を果たした試合も行われました。10年後の平成10年に、遂に解体作業が着工され、関西国際空港の玄関口として、なんばの再開発を担った南海は、大阪球場のあった場所とは思えない程の、南海サウスタワーを建て、4年の歳月を経て解体は完了。そして、平成15年に「なんばPARKS」を建てました。 最後のなんば球場は、連日閑古鳥状態でしたので、南海とのホークスは決別し、更に大阪からも去って行きました。あれから16年、しかし、新しい拠点福岡で、ホークスは甦りました。と、言うより、新しい伝統を築いたのです。連日の大観衆と、強力なチーム。福岡の街は「福岡ダイエーホークス」一色となり、本当に良かった。そのダイエーも、16年の幕を閉じますが、大阪にはまだまだ根強い「南海ファン」はたくさんいます。 15年の歳月を経て、微かに造られたモニュメントが示す通り、球団売却当初は、南海もホークスとは決別する決意だったと思います。しかし、時が過ぎ、すっかりホークスのカラーが抜けた南海でしたが、やはりホークスがあった証を残したくなったのでしょう。その「心意気」が、野球ファンには堪らなく嬉しいのです。 2004年、球団を消滅させた近鉄も、今は球団と決別する決意だと思います。しかし、何年か時が過ぎたとき、そのときに心ある経営者の方がいて、藤井寺に「近鉄バファローズの証」を残すよう、決断してくれることを、今は切に願うばかりです。 |
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