野球の話(バファローズの話)

仰木監督の時代

2005年に、オリックスバファローズを指揮した「仰木彬」監督に対して、ある一つの興味を持って見ていました。それは、春季キャンプのときからテスト生として参加していた「吉井理人」投手を、どう扱うのか。もちろん、テスト生扱いでしたから、当落選上の選手同様に、オープン戦にもずっと帯同させていたのですが、それ以上にこの2人の関係が気になっていました。

あの感動的な優勝だった1989年。この時の近鉄バファローズは、押しも押されぬエース「阿波野秀幸」がいたのですが、同時に抑えのエース吉井の存在もありました。前年の「10.19」でも、重要な場面で吉井が登板していましたが、どうしても力んでしまう吉井。仰木監督としても、苦汁の選択だったと思いますが、2試合とも吉井の後に阿波野を投入していました。その悔しさを乗り越え、1989年10月14日の藤井寺球場でのダイエー戦。勝てば文句なしの、9年振り優勝の試合で、リードした7回途中から、エース阿波野を投入します。さすがに阿波野は、淡々とダイエー打線を封じて行き、こうなると最終回は吉井で締めて、胴上げや!と、そんな声がスタンドからチラホラ。しかし、最後の守りでマウンドに向かったのは阿波野でした。その姿を見て、やはり優勝決定試合ですので、近鉄の試合にこの時だけ来た様なお客さんも多くて、周囲は大拍手だったのですが、いつも来ている人たちにすれば「何でや?何で吉井放らせてやらんの?」というのが一般的でした。とはいえ、そんな拘りは捨てて感動的なフィナーレに酔いしれ、マウンド中心にできる胴上げの輪に対して、選手や裏方さんが一斉に駆け寄るのですが、そこに加わろうとせずコーチに手を引っ張られながら、ようやく加わった選手がいました。それが、吉井です。私も優勝の瞬間その場にいる楽しさもありましたが、どう見ても、吉井の不貞腐れた態度が気になりました。

このことは、後々ローカル的に話題になり、実際仰木監督と吉井の仲は、あまり良好ではなかったと思います。もちろん「プロ」ですから、監督も吉井が良ければ使いますし、悪ければ使わないのは当然で、以後は「ビジネスライク」のような姿を見ていて「プロはそういうもんやな」と、納得していました。時が経過し、2001年の日本シリーズでしたが、その第1戦だったと思いますが、朝日放送の中継をビデオに撮っておいたのです。シリーズも終わって少し落ち着いた頃に、そのビデオを見たのですが、なんとこの2人がゲスト解説でニアミス。そしてこのときも、お二人の会話などは全くなく、何とも気まずい空気のような感じを受けました。ダメですよ、このキャスティングは。よって、こんな経緯もあったので、オリックスバファローズでの吉井がどうなるのか、若干興味はあったのですが、さすがはそこはプロです。恐らく、昔と変らずに「良ければ採用するし、悪ければ採用しない」だったのでしょう。そして、シーズン途中で1軍に昇格した吉井は、次々に勝星を挙げて話題にもなりました。同時に、2人の「わだかまり」のようなシコリも、解消されたようなコメントも聞かれたので、まずは目出度しでしたね。

というように、仰木監督時代は、5年間全て勝ち越しでAクラスを維持していたのですが、同時に「仰木のお座敷」に呼ばれる選手は限定されていました。梨田・大石・阿波野・野茂・石井あるいはブライアントの、所謂スター選手ばかりで、その選手間の「不条理さ」もまた背中合せであり、恰好のネタだったのです。オリックスのときも、イチローを筆頭に星野・田口・平井の溺愛ぶりは、話題になりましたけどね。あるとき、今は楽天の投手コーチをしている小野などは「阿波野さんが鈴木啓示さんで、ボクは神部さん。同じ左腕でも、生まれたときから役割が違いますから!」と吐き捨て、村上隆行なども「ボク等はどうせ、石井さんが打つための捨て駒ですから!」のような、際どいコメントも目立ったのも、仰木監督の時代でした。

しかしこの時代は、西武ライオンズの黄金時代。徹底してセオリー重視で、ちょっとやそっとじゃグラつかないライオンズに勝つには、同じスタイルじゃダメだし、選手の潜在能力以上の「何か」を引き出さないと勝てない。その火事場の馬鹿力を出すために、嫉妬心を刺激したのだと思います。最後の頃の近鉄バファローズは、中村紀洋・礒部公一・北川博敏など、みんな仲良くやっていましたが、当時に比べれば隔世の感がありました。仰木監督の頃は、誰も彼も個人主義で、グランドでじゃれ合ったりする姿は、あまり見かけませんでした。しかし、互いに仲の良くない選手同士でも、試合になると助け合う。例えば、金村が三振してベンチに帰るとき、日頃仲が良くない(ように見える)石井に、何やら耳打ちしてアドバイスしたり、阿波野と野茂だって決して仲は良くなかったのですが、キャンプの時にはブルペンでアドバイスし合う。そんな風土が、この頃のチームの特徴で、仲良くなったのはお互いに引退してからですね。それは何故なのか、やはりみんな「勝ちたい」意識が強く、決して自分ひとりでは勝てないし、勝つためには仮にケッタクソ悪い奴でも、チームメイトに頑張って貰わないといけないのも理解していたのでしょう。それを醸し出していたのが、他でもない仰木監督だったと思います。

恐らくこの頃のチームは、西本監督時代に連覇したチームと比べ、個人能力の面では上だったと思います。ただ、究極のところ「纏り」という点では、若干足りなかったかなという印象で、西武ライオンズのそれと比べれば桁違い。そのあたりが、究極の個人主義だった後任監督就任で、崩壊したのでしょう。しかし、我々の「西武がナンボのもんじゃい!」という意識を、激しく掻き立ててくれた当時のバファローズ。優勝した1989年のスローガンである「ドラマッチックBuffaloes Togetherおおさか」というキャッチフレーズ、まさにこの年のパリーグを表した、的を得た言葉だと思います。この年から南海が去り、大阪では唯一のプロ野球チームとなったこともありますが、この頃は関西のプロ野球を「実力で」引っ張っていたチームでもあったと思います。仰木監督は、自分のチームだけではなく、パリーグ全体や関西全体を視野に入れて盛り上げようと、様々な施策も打っていました。関西だけの新年パーティや、西武包囲網のような過激発言もそれ。けど一方で、藤井寺にライオンズが来れば、いつも試合前に仲良く話す、森監督と仰木監督の姿があったんですよね。この頃の「近鉄-西武」のカードは、プロ野球最大の黄金カードでした。

もう一つ、仰木監督は「奥ゆかしい」面もあって、ことチーム創りに於いては、自らが犠牲になって「下地創り」をすることに、苦労を惜しまない方でした。結果的に崩壊しましたが、近鉄は年々戦力が充実し、鈴木啓示監督に引き継いだときの戦力は、もうこれ以上非の打ち所がない構成でしたし、オリックスでもイチロー選手が抜け、もう一度立て直さないといけないときに、自ら3塁ベースコーチに立って指揮をするなど工夫されていました。その何と言うかその「男気」が、オリックスバファローズというチームの監督に駆り立て、自らの体調面を「承知の上で」引受けられたのだと思います。

私より、もう一世代も二世代も若い方は、西本監督時代を知らない無念さもあるでしょうが、この時代の近鉄バファローズを見て、ファンになった方も多かったことでしょう。それだけ、強烈なインパクトがあり、西武と違って「非日常的」なチームだったと思います。近鉄バファローズ史上、最も人気があり、スタンドも盛り上がった時期であることは間違いありません。ちょうどこの頃は、私も学生から社会人になって、ウンザリするような日常から離れ、一方で選手たちの「仕事としての野球」を、少しづつ理解できるようになった行きましたので、学生時代とは違う日常生活の中での「メリハリ」のある野球観戦ができるようになりました。

西本監督より前に、三原監督のときにコーチに就任され、三原さんが退任してもずっとバファローズ一筋に指導。その間、西本監督を初め5人の監督に仕え、それぞれの監督の方針を忠実に実行し、自ずと経験を積みながら、近鉄バファローズを支えて来た仰木さん。そして、近鉄ファンとて予想しなかった監督就任は、あくまで鈴木啓示さんが就任するまでの「繋ぎ」であったことは、否定しようがありません。しかし、そんな中に「隠れた名将」はいるもので、その経歴を見れば確かに、三原監督の薫陶を受け、西本監督から学んだ経験を、大いに生かした監督さんでした。

現在も、スター監督がもてはやされる体質はあります。しかし名将は1日にしてならずで、指導者経験によって醸成されることを、あらためて感じさせられる仰木監督であると思いますね。

"「和」して勝つのはアマ、プロは勝って「和」す"