生で見た記憶に残る試合

昭和53年9月23日 後期最終戦! 天下分け目、エース対決となった藤井寺決戦! 対阪急 藤井寺球場

近鉄バファローズの球団史上、最も惜しく優勝を逃したのは、間違いなくあの「10.19」である。これは、プロ野球史上最大でもあり、翌年大接戦の末、ペナントを掴んだストーリーとしては、後世に語り継がれるのも間違いない。しかし、それに準ずるものとして、やはり近鉄バファローズはドラマを演じている。それは、初優勝の昭和54年の前年である、昭和53年後期。10.19のときも、その時代のパリーグには王者西武ライオンズがいたように、この時代の王者は阪急ブレーブス。ここまで、3年連続日本一を成し遂げるなど、V9巨人が終焉した後の球界の最強軍団だった。

この当時は、パリーグは前期・後期に分けて、それぞれの優勝チームがプレイオフを行い、勝者が日本シリーズに進出する制度となっており、仮に前後期とも同じチームが優勝した場合は、プレイオフはなく文句なしに優勝。阪急は、2年前にこの前後期優勝し、この年も前期は悠々と優勝。しかし、この王者に後期立ちはだかったのが、前期9ゲーム差だったが2位の近鉄バファローズ。両チームのデッドヒートは終盤まで縺れ、最後の直接対決の時点で、近鉄が若干上にいた。そして迎えた、秋分の日の9月23日。近鉄は今季最終戦で、阪急はこの日を温含めて残り3試合。この直接対決で、近鉄が勝てば後期優勝。阪急が勝てば、この時点で首位が逆転し、残り2試合中1試合勝てば阪急が優勝し、自動的にリーグ4連覇となる。秋晴れの藤井寺は、超満員の観衆を飲み込み、鈴木啓示・山田久志という、両軍自慢の大エースの先発で、火蓋が切って落とされた。

このとき、私は小学校6年生。3年生のときから、地元の少年野球チームの所属して、将来の猛牛戦士を夢見ていたが、現実は厳しいもので、6年生まで軟式チームに所属しているようでは、将来は暗いのは薄々感じてはいた。上手な子は、4・5年生のときから、有名なリトルリーグチームにスカウトされ、そちらに移って硬式ボールを手にして、来る日も来る日も練習に明け暮れる。実際、私のチームの同学年にも、後に上宮高校で甲子園に出場し、ヤクルトに入団する苫篠賢治などがいて、彼以外にも有望な子達はリトルリーグに移り、6年生まで居たのは同学年の13人中7人。今も大阪は、その組織がボーイズリーグなどと呼ばれるように、若干変化はあったが、子供の頃からのスカウト活動は活発に行われ、少年時代から優劣をつける社会である。良い悪いは別にして、それが大阪なのである。従って、落ちこぼれ組の私には、休日にプロ野球観戦などの時間は十分あったので、それはそれで構わないと、与えられた環境に甘んじ、近鉄バファローズの観戦を続けた。既にこのときは、学校では阪神タイガースファンの子達に囲まれ「近鉄博士」として、周囲から変わり者扱いされていたかも知れない。この日は、少年野球チームの子3人と一緒に、藤井寺入りした。

子供だったから、福本・蓑田・高井・マルカーノ・長池・島谷・ウィリアムス・中沢・大橋そして山田のメンバーを、憎々しげに見ていた。そして、石渡・小川・佐々木・栗橋・アーノルド・有田・平野・羽田・梨田そして鈴木のメンバーに、声援を贈っていた。阪急は、主砲加藤英司が洩れているが、極度に鈴木を苦手にしていた。またこのときの捕手は梨田で、鈴木の定番捕手有田はDH。このころはまだ、鈴木−有田コンビが当たり前ではなかったように記憶している。近鉄は初回、小川のヒットを足掛かりにチャンスを広げ、山田のワイルドピッチで1点を先制した。「やった〜やった〜またやった、山田がやったまたやった、阪急電車ではよ帰れ!」ってなもんである。スタンドの大多数は、南河内の近鉄ファンばかりである。このころは、平日は日生球場でナイターで、休日は藤井寺でデイゲームが標準的な仕組み。当時の私の家は、日生球場に近かったので、普通にナイター観戦しては家に帰り、休日は藤井寺までエッチラオッチラ通っていた。この日は、混雑が予想されていたので、近鉄南大阪線も急行を藤井寺駅に停車させていたが、のちにこれは当たり前になるのだが、このときが初めてだったのではなかろうか。とにかく、休日であっても閑散としていた藤井寺が、いつもと違う様相で、駅の改札を抜けるのに時間がかかったのと、球場内の通路が人込に溢れ、トイレになかなか入れなかった。

2回、簡単に2死を奪い、続く島谷も三振と思うハーフスイングに、マウンドの鈴木も少々苦笑い。しかし、ベンチから「68番」が飛び出し、主審に執拗に抗議。内野席前方に座っていた私には、ざわつくスタンドであっても、怒りを顕にする西本監督の怒声がはっきり聞こえた「ヘタクソ!」と。すわっ、西本監督退場か?と思ったが、主審はあらんことか、1塁ベンチの脇の通路に向って真っ直ぐ歩いて行き、真っ赤な顔のまま姿を消してしまった。抗議の最中、加わろうとする鈴木を制して「オマエは投げてろ」という感じのポーズであったが、この主審の意外な行動には面食らった感じの西本監督。鈴木は、指示通り投球練習をしていたが、心配そうに駆け寄ってきた小川と話し込んでいる。やがて、主審が登場し、何事もなかったかのようにプレイ再会。あとで判ったが、西本監督「ヘタクソ!」にプライドが傷つき、少々不貞腐れたようだが、現代ならブーイングものである。鈴木は、難なく島谷抑えてチェンジ。いい感じであったが、実は少しづつ鈴木にプレッシャーが圧し掛かってきていた。

3回に、福本がきっちりとセンター前に打ち返して同点。4回にもピンチを造ってしまう。面白いもので、そうなると打線が山田を打てなくなるもので、これぞ阪急の恐ろしさがヒシヒシと伝わってきた。そして5回は簡単に2死を奪ったあとで、福本を四球で歩かすと、すかさず盗塁を決められ、蓑田のタイムリーで逆転。子供だったから、今ひとつ理解していなかったが、当時既に近鉄ファンの間では、鈴木は大事な試合に弱いというのは常識だったようだ。よって、周囲の「鈴木替われ!」の怒声が不思議でならなかった。ここまで25勝を挙げ、最多勝・防御率のタイトルを手中に収めている、我が近鉄バファローズの大エース鈴木啓示。このエースが打たれたら仕方ないし、それで負けるなら・・・そう子供ながらに思っていた。実際、西本監督も鈴木の勝負弱さは理解していたようだが、この大一番で、自らの進退を賭けた勝負だったのだろう。監督とは、そういうものなのだろうか。2005年9月19日の神戸で、楽天イーグルスの田尾監督が、岩隈久志がいるマウンドに自ら向ったとき、このときのことを思い出していた。

王者阪急打線は、容赦なく鈴木に襲い掛かる。しかし、鈴木も必死に投げ続け、ショートの石渡が、再三の好守で切り抜ける。そしてこのとき、漠然と気付いたことがある。鈴木がピンチになったときは、内野は集まらない。それどころか、キャッチャーの梨田ですらマウンドに行かない。井本や村田が投げているときと、大違いである。孤高のエース、鈴木啓示を漠然と感じたときであった。打線も本当に止まってしまい、4回以降はヒット1本に抑え込まれた。しかし、まだ1点差であるから、まだ判らない。希望を捨てる必要はないし、スタンドも盛り上がっている。だが、終焉が来てしまう。8回、またしても福本が先頭打者でヒットで出塁。もう、内外野とも全神経を使って守っていたが、盗塁と犠飛で3塁まで行かれる。これが、阪急の野球というのを、今までいい加減に見せ付けられてきたが、この日も同じである。憔悴し切った近鉄ナインに、4番マルカーノの快心の一撃が飛び、栗橋がその打球を諦めた後姿で、全てが終わった。5番長池に、漫然と投げた初球が痛烈にレフト前に行くと、今度はゆっくりと「68番」が出てきた。

以後、2番手柳田が3安打を浴びながらも抑えたことも、最終回にこの年の首位打者佐々木のヒットから1点を返したことも、あまり記憶にない。近鉄バファローズの昭和53年は、これにて全日程終了。阪急ブレーブスは、2試合を残して首位に立ち、1試合でも勝てばリーグ優勝となる。もちろん、まだ近鉄の優勝の可能性があるのだが、他の4チームは消化試合モードではムリである。阪急は、次の試合で当然のようにロッテを下して、リーグ4連覇となった。このときの記憶があったので、10年後の10月19日に、ロッテが近鉄に必死に勝ちに行っているが、不思議だった。

これも、あとで聞いた話だが、試合終了後簡単な慰労会が、藤井寺球場内で行われたそうだが、西本監督は個々の選手に「ありがとう」と声を掛けたそうで、直感的に「辞任する」と感じた鈴木をはじめ選手たちが「辞めないでくれ!」と懇願したそうだ。実際、西本監督は球団に辞任を申し入れたが、近鉄グループを挙げた慰留により、撤回したそうだ。

私もこれで、小学校時代の野球観戦を終了。中学校に行ったら、どうなるか判らないが、少しは窮屈になりそうで、できれば今年優勝して欲しかったなと感じた。しかし、近鉄バファローズの栄光は、もう目の前である。