生で見た記憶に残る試合
| 昭和56年10月4日 | シーズン最終戦 | ありがとう、西本監督 | 対阪急ダブルヘッダー | 日生球場 |
2年連続でリーグ優勝を果たしたが、V3は達成できなかった。それどころか、この年は前期最下位後期4位で、トータルしても最下位であった。原因は、いろいろある。第一に主砲のマニエルとの、契約交渉が決裂し、退団となってしまった。更に、大黒柱鈴木啓示と、右のエース井本隆が、丸っきり勝てないのであった。何と言うか、集中力がないと言うか・・・殊に井本などは、不用意な投球で本塁打を浴びる機会が、やたら多かった。更に、打線の中核の一人、佐々木恭介が致命的な体調不良で戦列を離れ、結局この年で引退してしまった。
新戦力では、マニエルの替わりに来た新外国人ハリスは、小柄で力感はマニエルと比べるまでもなかったが、むしろこのハリスが良く打ったくらいであるから、栗橋・羽田らの不振は目を覆うばかり。ベテラン白仁天も、往年の力はなくパッとせず、翌年韓国へ渡った。また、ドラフト1位で滝川高校から入団した石本貴昭は、甲子園での活躍を見ていたし、延岡キャンプでも西本監督が「この石本は、えぇ素材やから、使ってみよう思います。」というコメントから、とても楽しみにしていたが、やはりプロの壁は厚く、オープン戦でKOされ、一軍に定着するのは4年後であった。唯一、ドラフト2位で入団した大石大二郎が、代走や守備固めを中心に起用され、後半はスタメン出場も増え、打席数は少ないが、打率を3割台に載せたのが、せめてもの明るい話題であった。
近鉄の不振は、パリーグの歴史の流れを変えた。阪急と優勝争いをしていた時代が終わり、昨年前期優勝したロッテが再び前期優勝。後期は昨年最後まで近鉄と争った日本ハムが取り、プレイオフは関東で行われた。ロッテは、ミサイル打線復活よろしく、和製大砲の落合博満が、初めて首位打者となった。日本ハムは、何とトレードであの江夏豊を獲得し、優勝に大いに貢献した。阪急は、上田監督が復帰し、何とかAクラスを確保して、面目を保った感じである。
歴史を紐解けば、バファローズの最下位は過去に幾度もある。しかし、私が見始めたのが昭和49年で、丁度西本監督が就任した年であり。徐々に強くなって行く過程を、追っていった感じであったので、大変幸せな思いをしたものであった。その西本監督が、体調を患いこの年を最後に、勇退することになった。「西本幸雄監督」、時に61歳で当時としては、現役最年長監督であり、他球団の若々しい監督さんと比べ貫禄があって、単純な言い方だが、シブくてカッコ良かった。
この年、私は中学3年生であり、学校生活もクラブ活動も最上級生となり、何かと忙しかった。それ以上に、高校受験を控えており、それなりに目標にして行きたい府立高校がっあったので、バファローズの調子云々以上に、受験勉強の方に集中していたのは事実である。実際、頑張れば手が届きそうな雰囲気だったので、日生や藤井寺あるいは大阪球場通いは、日曜日にやっていれば気分転換に行く程度で、西宮までは足を伸ばさなかった。それも、ただ平然と眺めるだけで、勝った負けたで騒ぐこともなかった。ある意味、過去2年リーグ優勝できた満足感もあったと思う。この年は、普通にシーズンが終わった感じだし、プレイオフも日本シリーズも記憶にない。
そして、西本監督の最後の試合も日曜日。私は、受験生でありながら、現代と違って学習塾などは行かず、目標は府立なので教科書を繰り返し読むことにのみ集中し、むしろ中学の教師に質問しながら受験勉強を進め、あとは問題集をひたすら解くことに専念していたから、時間は自分で創れる。よって、この日の日生球場は前から計画して、上本町の百貨店で前売指定席を買っておいた。さすがに最終戦、お客さんがたくさんいるし、「ありがとう西本監督」という横断幕もたくさんあった。ダブルヘッダーで長いのだが、私は第一試合は淡々と眺めていた。一昨年、大阪球場に日本シリーズを一緒に見た仲間は、もういない。実際の「近鉄ファン」なんて、地元大阪でも少数であり、「どっちかと言えば阪神」という者が大多数である。よって、たった一人でグランドを眺めていた。第一試合が終わり、親から貰った小遣いで、焼きそばとファンタグレープを買い、第二試合の開始を待つ。
このとき、西本監督がいなくなるという現実が、少しづつ涌いてきた。私にとっては、凄いタイミングだった。ファンになったときに、西本監督が就任。そして優勝も体験できた。そして今、少しづつ私が野球から離れかけようとしているとき、西本監督がいなくなる。勝手なもので、西本監督に辞めて欲しくなくなってきてしまった。高校受験が終われば、また球場に来たくなったし、鈴木啓示の黄金の左腕」も、栗橋の力強いスイングも、梨田のコンニャク打法も、平野のヘッドスライディングも、柳田のコマ回しのようなフォームも、羽田のエラー?も、みんな忘れ難い思い出であるし、その中心には西本監督が良く似合う。
試合結果は、近鉄が連勝したが、この第二試合の途中から、両軍応援団のコールが「○○倒せ、おー!」ではなく「ありがとありがと西本さん!」になって行った。そうなのである、相手阪急も西本監督に育てられた選手であることを、このとき思い出した。このとき、私は自分に目標があったとはいえ、野球から近鉄から心が離れかけていたのを恥じた。小さいときに芽生えたことは、どんなに隠しても隠し切れない。近鉄バファローズというチームは・・・周りのみんなが好きな阪神ではなく、物凄く強かった阪急ではなく、ドン臭くて不細工だけど、いつも私の傍にいてくれるチームだったのだ。危うく、私は失ってはいけないものを、失いかけていた。
試合後、両軍選手に胴上げされる西本監督は、マイクで場内に別れの挨拶をし「近鉄バファローズファンのみなさん、これからも、近鉄バファローズをよろしくお願いします!」と力強く結び、日生球場を去った。その西本監督の周りを、背番号43の小柄な若い選手が機敏に動き周って、受け取った花束を片付けたりしている姿が、やけに目立っていた。この年は、本当に真剣に観戦していなかったので、その選手の背番号の上に書いてあるローマ字を読んで「あれが、大石大二郎か」と、今更ながら気付いた。
当時私は、日生球場から地下鉄で1駅のところに住んでいたので、涙を堪えながらゆっくり歩いて帰った。後任監督になった、関口コーチは最初のドラフトで、甲子園の優勝投手である、報徳学園の金村義明を獲得した。次の黄金時代への、準備は始まったばかりだった。私の高校受験の目標は、念願叶い見事合格できた。私は、西本監督の「言い付け」を守り、高校時代も時間があれば近鉄の試合を見に行き続けた。西本監督も、以後現場に復帰することなく、関西それも近鉄中心に、評論家活動を最後まで続けてくださった。