生で見た記憶に残る試合
| 3 | 昭和54年11月4日 | 日本シリーズ第7戦 | 終盤追い詰めるも、江夏の21球。 | 近鉄 3−4 広島 | 大阪球場 |
俗に「江夏の21球」と言われ、日本シリーズ史上最大の名場面を生で見られた喜びは、ずっと後になって認識した。そのときは、まさに一ファンとして、雨を凌ぎながら夢中になっていたのである。近鉄の2軍監督も勤めた石渡は、あの場面を振り返り「あんなのは奇跡、いまだに信じられない。」と言う。一方江夏は「当事者だった石渡くんが奇跡と言うのは判る、しかし見ていた評論家が奇跡というのは信じられないね。」と。
この試合の打順には驚かされた。1番から、石渡・小川・マニエル・栗橋・有田・羽田・アーノルド・平野・鈴木。マニエルと栗橋の打順が入れ替わるったりすることはあったが、石渡と平野が逆である。何しろ、平野が当たっておらず、第6戦までノーヒットだった。近鉄のブレーキがガッツマン平野であるのに対し、広島のブレーキは主砲山本浩二であった。よって、近鉄は満足にチャンスができないし、広島はチャンスを生かせない展開が多かった。そして最終戦、西本監督は平野を動かしたが、古葉監督は山本を4番から外さなかった。大阪球場で2連勝したシリーズであったが、敵地広島でまさかの3連敗。そして、大阪に戻った第6戦で圧勝し、最終戦を迎えていた。私は、第2戦同様のメンバーで、再び大阪球場に出向いた。この時点で、日本一になっていないチームは、12球団で広島と近鉄だけである。どっちが勝っても初の日本一であり、三度の「鈴木VS山根」対決となった。ここまで五分だが、両投手とも絶好調。最後の最後で、大黒柱鈴木啓示を送り込む「地元」近鉄が有利であろうという評判だった。天気は朝から雨、ビニールの雨合羽と傘を持参しての観戦となった。
しかし、鈴木がおかしい。初回、その山本浩二にタイムリーを打たれ、3回にも1点を奪われ降板してしまた。私は、何とも言えない心細さを感じた。しかし近鉄も中盤、遂に当たっていなかった平野が、右中間スタンドに飛び込む2ランで同点にした。パンチパーマで、何となく怖い風貌の平野が、満面の笑みを浮かべてホームインしたとき、流れはこっちに来たと感じた。ところが、替わった柳田は好投しているものの。伏兵の水沼に2ランを浴びてしまう。しかし、このまま引き下がるわけには行かんと、6回に1点を返した。広島は、7回からお約束の江夏がマウンドに。近鉄も、広島球場で結果が出なかった、プレイオフのヒーロー山口哲治が、8・9回をしっかり抑えた。そして、1点差のまま、最後の攻撃を迎えた。
最終回の攻撃を、つぶさに説明しても仕方ないし、それは山際淳司氏が描いたコラムを参照すれば良いであろう。また、佐野正幸氏が描いた通り、それまで大阪球場では3塁側にも近鉄応援団が陣取っていたが、最終回は1塁側に終結し、大応援が繰り広げられたのも事実である。私自身大いに関心があったのは、この時点で代打の切り札である佐々木恭介と、足のスペシャリスト藤瀬がまだベンチにいたことが、心強かった。それより何より、まず先頭の羽田にはホームランを期待した。この最終回の場面を、ビデオ等で見たことがあれば気付くと思うが、とにかく西本監督が展開に応じて、ベンチを出たり入ったり、右に左に動き回り、落ち着きがないようにも見える。実際こんなことは、西本監督にしては非常に珍しいことで、滅多にベンチを出たりはしないのだ。しかし、見ていた私にも、ちょくちょくベンチを出ては消える68番に、不安を覚えたのも事実である。また、江夏が語る、広島ブルペンの動きについても、確かに誰か投げていたのは気付いたが、それがどれほど重要かは知らなかったし、ましてや、途中衣笠が江夏に声を掛ける場面も、特に認識していなかった。そして私は、石渡がスクイズを外され、藤瀬がアウトになった後も、2死ながらランナーは2・3塁にいるので、石渡がヒットさえ打てばサヨナラだし、もし石渡を歩かせたら、バッターは小川だからどうするんだろう?などと考えながら、声援を送っていた。しかし、結果はあえなく石渡は三振で試合終了。このとき初めて、体から力が抜け、雨による寒さを感じた。
とはいえ、最後の閉会式まで付き合い、優勝した広島カープに拍手を送ったのも、何となく満足感があったからである。だって、初めてリーグ優勝し、日本シリーズでもここまで闘えたのだから、来年以降も十分期待できると思っていた。その期待は、半ば満たされ、半ば裏切られた。13歳になったばかりの、秋の話である。